牡鹿郡大領。嶋足の弟。
780(宝亀11)年、伊治城にて、鮮麻呂によって紀広純とともに殺される。
奈良後期の武将。
陸奥国牡鹿郡の出身者で、中央大官になり、一族あげて陸奥経営に大功があり、古代史上、例外をなす人である。
はじめ丸子氏、次いで牡鹿連となる。大楯の兄。
「体貌雄壮、志気驍武」といわれ、馳射をよくした。
757(天平宝字1)年、橘奈良麻呂の変で主謀者のひとりとされた賀茂角足に請われ、高麗福信らとともに額田部の宅に酒を飲むと伝えられる。このころ従七位上授刀将曹に任ぜられていた。
764(天平宝字8)年、恵美押勝の乱にさいし将監坂上苅田麻呂とともに、詔を奉じて疾く馳せ、恵美訓儒麻呂を射殺した。この功により、従四位下勲二等、姓宿禰を賜り、授刀少将兼相模守となった。
翌年(天平神護1)中将に転じ、本姓を改めて道嶋宿禰となる。
その後正四位上までのぼり、内厩頭、下総守、播磨守を兼任した。
この間、767年(神護景雲1)陸奥大国造に任じ、その功田20町は、大功田に准じている。
(2) 770年当時、正四位近衛中将。
(3) 皆神山の中腹には横穴式古墳があり、突き当りの天井岩が斜め下に繋がるように45度も傾斜している。週刊誌の調査の際に、石組みの奥にタバコの煙が吸い込まれ、岩の奥に道があるのではないかと騒がれたが、定常振動法という探査では空洞や巨石はないと結論された。
大正初期に『天照大御神』の墓石が発見されて、皆神山を中心にして『高天が原』があったと騒がれた時に、この古墳が天照大神の岩戸隠れをした洞窟ではないかと言われたことがある。皆神山の名前も、岩戸隠れの際に神々が集まって来たためと説明されている。
(4) 虹人は、古文献に皆神山の伝承が残っていないことから、ピラミッド説に関しては半々と考えている。
(『竜の柩』)