9歳で4代将軍となった藤原(九条)頼経が、長く鎌倉にとどまり御家人とも親密となり、執権勢力に対抗するようになると、これを恐れた執権北条経時は、1244年(寛元2)頼経に迫って将軍職を子の頼嗣に譲らせた。
頼経は翌年出家し大殿と呼ばれたが,なお隠然たる勢力を持っていた。
46年経時が病没し北条時頼が執権となると、この機に北条一門の名越光時が頼経に接近して執権の地位を奪おうとしたが、逆に有力御家人三浦・安達氏を味方とした時頼派に先を越され、弟時幸は自殺,光時も出家して伊豆国江馬に流された。
同時に頼経派の評定衆らも罷免され、鎌倉に留まっていた頼経は京都に追放された。
この事件に座して頼経の父九条道家も関東申次を罷免されて失脚した。