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キャラクターファイル 『鬼』


滋丘川人
弓削是雄
三善清行
浄蔵
伴善男
賀茂忠行
賀茂保憲
安倍晴明
晴明以後


滋丘川人

?―868
陰陽博士、陰陽頭、播磨権大掾、播磨権介
従五位上

式占(ちょくせん)、遁甲(とんこう)、宿曜道に優れた陰陽師。『世要動静教』『指掌宿曜経』『滋丘新術遁甲(とんこう)書』『六甲六帖』『宅肝経』など多数の書物を著した。いずれも現存しないが《滋丘新術》という彼独特の方術があったことが示唆される。

遁甲で安倍安仁を救った話は、「髑髏鬼」に載っているので省くが、村山修一氏は『日本陰陽道史話』のなかで、「どうしてわざわざ嵯峨の寺まで行ったのか、あるいはこの寺が京都の中心から乾(北西)の愛宕山の方角に位置し、愛宕山は悪鬼の棲むところとされたので、大晦日の追儺にはこの方向に対して祓いを行うことがあったのではないかとも思われます」と述べている。また、この御陵の選定に伴善男も加わっているのが興味深い。

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弓削是雄

生没年不詳
弓削安人の子
備前権掾、天文博士、陰陽頭、播磨権少目
従五位下

弓削是雄は式占(ちょくせん)の達人として、知られている。式占とは、陰陽道の占術であり、複雑な陰陽の流れを式盤によって占うものである。式占に用いる式盤は、十干、十二支、十二月将などが記された円盤と、八卦、十干、十二支、二十八宿などが記された方盤があり、方盤の上に円盤を重ね、それを回転させて占術を行った。
『鬼』においても、式占の達人という是雄の特徴がよく描かれている。「絞鬼」では、丹内山神社の神体石の前で、是雄が式盤を用いている。(単行本79頁、文庫本70〜71頁)。また、『白妖鬼』でも、陽成帝の運気と、是雄自身の運気について、式盤を使って占い、以後の展開を予言するという場面が設定されている。

是雄の優れた占術の例話は、『今昔物語集』第二十四巻の「天文博士弓削是雄、夢を占いし語」にみることができる。
貞観6年(864)、伴宿禰世継という男が、穀倉院の使いとして東国に出向き、帰京の途、近江の国勢多駅に宿泊した。その頃、弓削是雄は、近江国の介に招かれ、属星祭を営むことなり、世継と同宿した。その夜、世継は悪夢を見たので、是雄に占ってくれるよう頼んだ。是雄は式占を試みた結果、世継に身の危険を教え、「家に帰るな」と告げた。世継は「どうしたら災難を免れようか」と聞くので、是雄は「あなたがどうしても帰宅したいのなら、あなたを殺そうとする者が家の艮(丑寅=北東)すなわち鬼門の方に隠れているから曲者の隠れていそうなところに向かって弓を引き、早く出て来い、さもないと直ちに射殺すぞ、と一喝しなさい。そうすれば自然に事は明らかになるでしょう」といった。世継は教えられたとおり、家に帰って艮の角の薦を掛けてあるところに向かって威喝すると、一人の法師が現れた。これを捕えて訊問すると、彼は世継の妻と通じて世継を殺すつもりであったと白状したので、この法師を検非違使に渡し、妻を追放した。世継は、命を取り留め、改めて是雄の方に向かって伏し拝んだという。

また、三善清行が著した、『善家異記』の中にも、弓削是雄の逸話がある。
寛平4年(892)8月、三善清行が勅使となり、経典の学識のあるものを試験し、及第するものに僧の地位を与えることとなった。時に陰陽頭であった弓削是雄は、一人の沙弥(まだ得度していない修行者)を推薦して、清行に書簡を送った。この人は、学は乏しいが、北山に住み昼夜念仏している。もう六十歳になったが未だに僧侶としての位が無い。どうかあなたの手で及第させてやって欲しいと懇願する内容であった。清行は、あらかじめこの沙弥の実力を知ろうと法華経の一品を読ませてみると、注釈はおろか読みもできなかったので、その旨を是雄に知らせたが、是雄は、それでも、とにかく受験させてもらえばいいと返事をした。当日、試験官である僧侶、知識人らが証師として列席する中、沙弥が二番目の受験生として読経に入ろうとしたとき、天子より証師らに対してお召しがあり、全てを清行に一任して証師らは座を立ち内裏へ行ってしまった。こうして沙弥の無能を咎める者なく、清行は是雄の占験の神意に感服し、沙弥を及第させた。清行は、「おおよそその道に練達する者は、死中に生を求め、凶中に吉を得るのである」と、是雄を激賞している。

弓削是雄は、弓削道鏡(?―772)の親族にあたる。道鏡の出自について、『続日本紀』には、「道鏡、俗性弓削連、河内の人なり」という記事がある。弓削連について定説は無いが、『続日本紀』天平宝字8年9月の詔に、次のような記事が残されている。
「此の禅師(ぜんし)の昼夜朝庭(ひるよるみかど)を護(まも)り仕(つか)へ奉(まつ)るを見るに、先祖(とほつおや)の大臣(おほまへつきみ)として仕へ奉りし位名(くらゐな)を継(つ)がむと念(おも)ひて在(あ)る人なり」
道鏡の朝廷に仕える様子を見ると、祖先が大臣として仕えていた過去の栄光を取り戻そうと思っているようだ、という内容である。
弓削と関連する大臣といえば、物部弓削連守屋以外にはいない。道鏡が守屋の直接の子孫か否かは不明だが、弓削道鏡が物部氏と何らかの関係があったことは間違いないであろう。
物部の "もの "とは、古代においては、霊威、鬼神などの畏れ慎むべき対象の意であり、漢字では〈鬼〉と表記することが多かった。弓削道鏡、弓削是雄という類稀な呪力を持った人物が二人、弓削氏から生まれたことは、"もの "の血のなせる技であろうか、あるいは単なる偶然であろうか。

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三善清行

847―918(承和14―延喜18)

三善清行は、「魅鬼」の中では昇進に執念を抱く餓鬼として登場する。息子の浄蔵に憑き、道真の怨霊を演出して昇進の道を開こうとする鬼として描かれているが、史実的には、いかなる人物であったのだろうか。

三善清行は百済人の子孫で、平安前期の文人官吏であるが、易にも深い造詣があった。弓削是雄の逸話を載せた『善家異記』は、彼の著作である。

昌泰3(900)年、清行は53歳で文章博士兼大学頭となった。この年、清行は、右大臣菅原道真に書簡を送っている。その内容は「明年は辛酉(しんゆう)で変革の年にあたり、二月頃には政変があるでしょう。あなたの栄達は奈良朝の吉備真備以外、学者では例がありません。この辺でもう身を退かれるのが、あなたのためでしょう」というものであった。同時に清行は朝廷に対し、「明年二月は帝王革命の期、君臣剋賊の運にあたるので、天皇は充分警戒されるように」と進言した。おそらく彼は、時平の策謀を予知していたため、道真に下野を勧めて追い詰め、他方では天皇に道真の追放をほのめかし、自己の占術の優秀さを示して、政界の注目を集めようとしたのであろうと思われる。あるいは、時平の意向を察して、道真追放の時平の策謀に、あらかじめ辛酉革命という根拠を与えようとしたものであったかもしれない。時平、清行の間に明確な共謀が無かったにせよ、清行の進言を利用することは、お互いに得るところが多かったということは間違いない。

道真が清行の予言どおり追放されると、次に清行は、辛酉の年の昌泰4(901)年に『革命勘文』を上奏した。それによると、中国の陰陽書に基づけば辛酉の年には天命が革(あらた)まり(革命)、甲子(かっし)の年には令が革まり(革令)、戊(ぼ)午(ご)の年には天運が革まる(革運)。特に辛酉は、神武天皇即位の年であり、それから一蔀(いちぽ)という大変動の周期を経た年には、斉明天皇が百済救援に九州へ赴いてその地で崩じた災厄の年となった。それから、240年をへた辛酉の年である昌泰四年は、四六の変といって大変革にあたるとして、朝廷に改元を迫った。

しかし、村山修一氏によると、実際、斉明天皇の崩御は、辛酉と直接関係はなく、清行は、災異改元によって陰陽道界の主導権を握り、出世の足がかりにする野心があったのであろうと、述べている。

朝廷では、その意見を入れて七月十五日、延喜と改元した。その結果、学者知識人は些細な不祥事でも誇大に宣伝して、改元のイニシアチブをとり、手柄にしようという風潮を招いた。これは、門閥に繋がらない学者、知識人は、たとえ才能があっても、中央の下層官僚か、地方官僚止まりであるという現実があり、何とか手腕を発揮し、上層貴族に認められて出世できる機会を、彼らが求めていたためでもある。三善清行も、『革命勘文』などの上奏にもかかわらず、参議兼宮内卿に栄進したのは、七十一歳という年齢であった。

三善清行の生き方は、道真の追放に暗躍したり、辛酉と直接関係の無い事例を利用してまで改元を主張したりと、まさに鬼気迫るものがある。「魅鬼」の中に描かれた、死しても昇進に固執する餓鬼は、彼の執念を象徴しているようである。

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浄蔵

生没年不詳
三善清行の子

平安中期の天台密教僧。
十二歳で叡山に登り受戒し、玄昭に師事して密教を学ぶ。909(延喜9)年菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると、ニ匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出した話は有名である。940(天慶3)年横川首楞厳院(しゅりゅうごんいん)で平将門降伏の祈祷を修し、その誅滅を予言した。また八坂法観寺の塔が傾いたのをまじないで復すなど、幾多の呪的奇跡を演じた。960(天徳4)年の内裏火災を予言し、寛修法師の後ろ姿からその死期を推断適中せしめ、成道、東光、長谷諸寺の災厄をいいあてるなど、易筮(えきぜい)卜占(ぼくせん)にすぐれ、大峰、熊野にも修練を重ねた密教行者であった。

『北野天神縁起』は浄蔵について、「十歳ぐらいから、護法をつかい、後には仏教系の学問・技能はもちろん、天文、易道、卜筮、占相などにおいても、世にならぶ者なしと謳われた」とある。

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伴善男

   ┌―旅人――家持
安麻呂―宿奈麻呂―古麻呂―継人―国道―善男

伴氏のもともとの呼び名は大伴氏。弘仁(823)年、淳和天皇の諱が大伴であったので、それを憚って「大」の字を取ったのである。

善男の曽祖父は、『風の陣』に登場する古麻呂で、家持の従弟にあたる。古麻呂は橘奈良麻呂の変に連座して刑死している。

善男の祖父の継人は、藤原種継暗殺事件の首謀者の一人として斬られた。

直系の子孫には連座制が適用され、善男の父の国道は佐渡に流された。聡明で才能に富んでいた国道を、同国国司らは師と頼んで国政を行ったという。二十年の流謫の後、恩赦により帰京。国道はたちまち頭角をあらわし、陸奥少掾に任じられた。この年に善男が生まれている。翌年国道は権介となり、文室綿麻呂のもと征夷に伴う国務を行い、実績を認められた。帰京後順調に昇進し、淳和天皇の践祚の際に姓を「伴」に改めた。家持以来の参議にまで昇る。空海とは心を許しあう友だったらしく、陸奥按察使となった際に国道の前途を気遣う手紙が残っている。(高野雑筆集)

善男が十八歳の時に国道は陸奥で没した。二年後善男は校書殿に祗候する。永井路子氏によれば学問好きの正良皇太子(後の仁明天皇)の知遇を得るためという。三二歳の時に蔵人。この年『総門谷R』でご存知の承和の変が起こる。以後順調に昇進する。文徳天皇が即位すると、母の順子(良房の妹)の中宮太夫となっており、藤原氏との密接な結びつきがわかる。

文徳には、紀氏の静子が生んだ惟喬と、良房の娘明子が生んだ惟仁(後の清和天皇)の皇子がいたが、良房は強引に孫の惟仁を皇太子にしてしまった。惟喬が天皇になれば、外戚の紀氏や在原氏が権力を握ってしまうからである。
この皇太子選びには、相撲で勝負を決めたという伝説も残されているが、相撲に出てくるのは、惟喬側は名虎、惟仁側は能男という男だという。これについて佐伯有清氏は人物叢書『伴善男』のなかで、名虎は惟喬の祖父・紀名虎、能男は字こそ違え、善男と同じだといい、何らかの形でこの皇太子選びに善男が関わっていたと見る。

文徳天皇が若くして没すると、善男は安倍安仁、滋丘川人と、真原丘に山陵の地を定めている。『今昔物語集』に記されている川人の話はこの時である。

「応天門の変」では、共犯として紀豊城が流刑。これに縁坐して良吏の誉れ高かった紀夏井も土佐に流罪となり、紀氏が失脚している。

旅人以来百三十年ぶりに大納言に至った善男であったが、伊豆国に流されて二年後没した。

『宇治拾遺物語』には西大寺と東大寺とを跨いで立った夢を見たという、善男の夢解きの話が載る。

『三大実録』では、善男をこう評している。 性残酷、口弁アリ。官に当たりて幹理、察断機敏。

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賀茂忠行

生没年不詳
近江掾・丹波権介・従五位下
賀茂保憲(かものやすのり)、慶滋保胤(よししげのやすたね)の父

『今昔物語集』は、忠行を陰陽道に関しては当時肩を並べる者なしと評して、彼の占験能力を示す説話を収めている。この話は、「夜光鬼」に、平貞盛との出会いとして挿入されている。(単行本110頁、文庫本98頁)
忠行は、平将門、藤原純友の乱に際し、白衣観音法を修して兵革を鎮めるように藤原師輔に進言している。白衣観音は諸星の母であり、九曜息災大白衣観音陀羅尼を唱えると、兵乱を除き九曜の星の災禍を祓うとされる、陰陽道の色合いの濃い観音信仰である。当時、真言密教の僧侶も詳細を知らなかった修法であっただけに、忠行の進言は注目された。

また、忠行の卜占の正確さについては、三善為康が著した、『朝野群載』巻十五に記されている。天徳3年(959)2月、村上天皇が忠行の占術を試みるため、水晶の念珠を箱に入れ、これを当てさせた。忠行が易の射覆(しゃふく)と称する占法で、朱糸で貫いてある水晶の念珠が八角の箱に入っていることを、鮮やかに看破した。

賀茂氏は、大和の葛城を本拠地とし、葛城山の一言主をまつる氏族である。『古事記』は、雄略天皇が葛城山にのぼり狩猟をした際、一言主神と遭遇した話を記している。
この時一言主神は
吾(あ)は悪(まが)事も一言、善(よ)事も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主大神
と、名乗っている。
このような言葉から解るように、一言主神は吉凶を告げる呪言神で、その託宣に強力な呪力があると信じられていた。

また『日本書紀』斉明天皇元年には、空中に竜に乗る者が現れ、唐人のごとく青い油笠を着、葛城山頂より生駒山に移ったという記載がある。村山修一氏は、これを天翔ける仙人の活動の暗示とみて、葛城山にはこの時すでに陰陽道・道教に影響された呪術宗教家の活動があったと想像されると述べている。つまり賀茂氏がまつる葛城山の一言主神の宗教を、巫祝の活動に陰陽道・道教の方位に関する吉凶や天候気象、作物、人間の卜占の技術が結びついたものととらえている。

賀茂氏で最も古く知られた人物は、奈良朝初めに出た賀茂役君小(えんのきみお)角(づぬ)である。賀茂役君は、主家の賀茂氏に仕えていた家筋であったが、小角は卓越した人物であったため、葛城山の賀茂氏を代表するほどの権威を有した。小角は、一言主神の託宣を司る呪術家であり、道教の神仙的方術の影響も受けていたと思われ、その超人的な呪術活動は、やがて、後世、賀茂氏に忠行、保憲などの有能な陰陽師を出す素地となった。

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賀茂保憲

917―977
暦博士、天文博士、陰陽頭。従四位下
賀茂光栄(みつよし)の父

保憲の幼少の頃からの非常な素質を示す話が、『今昔物語集』に載っている。
父忠行が祓いに出かけた時、まだ十歳の少年だった保憲が同行したことがあった。保憲は父が祓いを行っている間おとなしく父の傍で座っていたが、帰路父に尋ねた。「さきほど祓いをしていたとき、恐ろしげな姿をした人間のようなものが二、三十人出てきて、供物を食べたり、作り物の船や車に乗ったあと帰っていきました。あれはいったい何ですか?」忠行は保憲が幼くして鬼神を見たことに感動し、以後熱心に陰陽道の知識を授けた。

長じて保憲は父の忠行を超える有能な陰陽師として名を馳せ「当朝は保憲をもって陰陽の規模(手本)となす」『左経記』と称えられた。
保憲の著書として『暦林』『保憲抄』がある。

また、『今昔物語集』には、中身を当てる占覆(せきふ)という占術試合を保憲と晴明が行ったという話があるが、本文は現存していない。

天暦六(九五二)年、朝廷は保憲に従五位下を与えようとしたが、保憲は父を越える訳にいかないと固辞した。このため朝廷は父の忠行を従五位下に叙した。後に保憲は従四位下に栄進した。

保憲は息子光栄に暦道を、晴明に天文道を伝えた。伝来の天文道を晴明に譲ったことから、保憲がいかに晴明の実力を評価していたかが窺える。以後、賀茂氏と安倍氏が陰陽道の二大勢力として発展を遂げる。

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安倍晴明

921―1005
天文博士、主計権助、大膳大夫、左京権大夫
従四位下
安倍吉平(よしひら)、吉昌(よしまさ)の父

★父・母★

『尊卑分脈』によると、父は大膳大夫安倍益材(ますき)とされるが、室町時代の『臥雲日件録』には、父母はおらず、「化生ノ者」であると記されている。

★享年★

『尊卑分脈』では享年85。
『土御門家記録』には寛弘2(1005)年9月26日に他界の記述がある。
逆算して921年誕生とされている。

★生誕の地★

三つの説がある。
●1 大阪説…大阪市阿倍野区にある安倍晴明神社の治承4(1180)年の伝書に、晴明を哀惜してやまない上皇が寛弘4(1007)年に晴明の子孫を召して生誕地に晴明を祭らせたと記されている。阿倍野には「葛之葉子別れ」の伝説も生まれた。

●2 茨城説…最も古い時代にまとめられた晴明の伝記は慶長年間(1596―1615)に成立した『ホキ抄』であるが、これに所収されている「由来」に、晴明は筑波山麓の猫島で生まれたと記されている。常陸国には貞観18(876)年に陰陽師が派遣された公式記録があることからも、古くから陰陽道との関わりがあったと考えられる。

●3 香川説…『讃岐国大日記』には晴明が讃岐国香東郡井原庄で生まれたとあり、丸亀藩の公撰地誌『西讃府志』には讃岐国香川郡由佐の生まれと記されている。讃岐国由佐の地名の元となった由佐氏は常陸国の出身であり、茨城説と関係していると考えられている。

★名前★

「はるあき」とも読む「せいめい」の名前。伝承・芸能では「清明」の文字を用いることが多い。他には『日本史鑑定』でも「清明」の文字を使っていた。

「由来」では、道満との術比べに勝った安倍の童子に、帝が「清明」という名を与えたのは、この時期がちょうど二十四節気の清明の節に当たったからだと説明している。

★邸宅★

鬼門を守っていたと言われる晴明の邸宅は、『今昔物語集』には「土御門大路から北、西洞院大路から東」、『大鏡』には「土御門大路と町口小路の交差するあたり」と記されている。現在の京都ブライトンホテル敷地の南側一帯である。

晴明神社はもともと晴明の邸宅跡に建てられたが、戦火で移転、秀吉の都市計画で縮小したため、場所がかわっている。今の場所は、晴明が四角四堺祭の艮方の祭を行ったところと言われている。

★墓地★

晴明は、鴨川の氾濫を五条橋(今の松原橋)で呪文を唱えて抑え、この地に法城寺を建立した。「法」は「水が去る」、「城」は「土が成る」という意味である。

晴明は死後この寺に葬られたが、梅雨時になると洪水になった。(死後はこの呪術が効かなかったのか?)このため三条橋の東に改葬し、さらに東福寺門前の遣迎(けんこう)院の竹やぶの中に移したという。『雍州府志』

★エピソード……師匠★

晴明が大舎人の時、笠をかぶって勢多の橋を通ったとき、慈光という者が晴明を見て、一道の達人となる者だと告げた。晴明が陰陽師具曠(ともひろ)のもとに言ったが相手にされない。そこで賀茂保憲の所に行くと、保憲は晴明の人相を見て大切に扱った。『続古事談』

★エピソード……「視鬼」★

晴明が忠行の供をして下京を歩いていた時。百鬼夜行を見た晴明は、車の中で寝ていた忠行に知らせた。忠行は隠形の術を使い一行は無事であった。常人では見ることのできない鬼を見る力が晴明にあることを知った忠行は、晴明に自分の術の全てを教えた。『今昔物語集』

★エピソード……修行★

晴明は那智の千日の行人で、毎日二時間滝に打たれるという修行をした。前世は大峰の行人であった。『古事談』

那智で修行したのであれば真言密教や修験道の世界にも通じていたらしく、『大江山絵詞』では護法童子も使役している。護法童子とは仏法を守護するために使役される鬼神のことで、陰陽道の式神に相当する。

★エピソード……鬼(=式神)使い★

●播磨の国から、二人の童を連れた老僧が、陰陽道を習いたいと晴明の邸を訪ねて来た。老僧が自分を試すためにやってきたこと、二人の童が実は式神であることを見抜き、晴明は術を用いて童を隠した。老僧は他人の式神をも隠してしまう晴明の実力に感心し弟子になった。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』

この時晴明は、袖の中で印を結び呪を唱えているが、これを陰陽道では掌訣(しょうけつ)あるいは手訣(しゅけつ)といい、他者に見せないのが原則だからである。

●広沢の寛朝僧正の所で若い公達や僧から「呪力で人を殺せるか」と問われ、「試しに池のそばの蛙を殺してみろ」と言われた。晴明が草の葉に呪文を唱えて投げつけると蛙はぺしゃんこに押し潰れて死んでしまった。その場にいた人々は顔面蒼白になって驚いた。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』

広沢僧正は宇多天皇の孫で、真言宗の僧である。広沢流というこの流派は善なる心を育成することを求めているもので、この僧侶たちが殺生を求めたという皮肉が感じられる。

●式神を使っていたものか、家の中に誰もいないのに、蔀が上げ下げし、門が閉ざされることがあった。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』

●讃岐へ下向した時、式神に灯りをともさせて夜道を歩いていたが、善通寺の前で火を消してしまった。寺を通り過ぎると式神が戻ってきたので晴明が怒って訳を聞くと、寺の額を四天王が守護しているので恐れをなして他の道を通ったと説明した。『西讃府誌』(江戸時代)

●晴明の死後も子息に式神の使い方が受け継がれていて、晴明の孫の頃もその邸では式神の声が聞こえていたという。『今昔物語集』

★エピソード……身固め&式(=呪詛)返し★

晴明が左近衛府の舎人の詰め所に向かっていた時。華やかな行列をつくっていた蔵人少将の肩に烏が糞をかけた。烏は式神であり、陰陽師に呪いをかけられた少将は今夜限りの命であることを晴明は見て取った。晴明は少将の里で、少将を抱きかかえて身固めを行い、一晩中呪文を唱え続けて加持をした。実はこの少将の相婿が少将を妬んで陰陽師に呪い殺させようとしたものだったが、この陰陽師は、晴明の力の前に逆に戻ってきた式神に打たれて死んでしまった。『宇治拾遺物語』

★エピソード……反閇★

『権記』や『小右記』に晴明が反閇を奉仕したことが記されている。(年表参考)

★エピソード……花山天皇★

●花山天皇が頭風を病み、様々な治療も効果なかった。特に雨の季節には酷く痛んだ。晴明に占わせると「天皇の前世は尊い行者で大峰で入滅した。前世の行徳で天皇に生まれたが、前世の髑髏が岩の狭間に落ちて挟まり、特に雨が降ると岩が膨らんで、今生ではこのように痛むのだ」と言い、髑髏のある場所も指摘した。天皇が人を遣わして調べたところ、晴明の言った場所に髑髏があり、それを取り出して後は天皇の頭の病むことはなくなった。『古事談』

●花山天皇が那智に篭ったとき、天狗が様々に妨害したので、晴明を召し、狩籠の岩屋に多くの魔類を祀り置かせた。『源平盛衰記』

●花山天皇の命で北斗七星の星神を七本の杉に勧請した。これを北斗曼荼羅と言う。『熊野略記』

●寛和二(986)年、花山天皇は深夜に宮中を脱出し、東山の花山寺に入り剃髪するという劇的な退位を遂げた。この真相は、孫の懐仁親王(一条天皇)の即位を急いだ藤原兼家一門が、花山天皇の女御の死に乗じて行った策謀であった。

これは、花山天皇の一行がその花山寺に向かっているときのこと。晴明の邸の前を通過したとき、邸の中から晴明の声がした。「天皇が譲位したことを示す天変があった。すでに譲位は成立してしまったらしい。直ちに参内する。とりあえず式神が一人参内せよ」すると、目に見えぬものが戸を押し開けて、花山天皇の後姿を見たものか「ただいま帝が門の前をお通りになったようです」と報告する声が聞えた。『大鏡』

★エピソード……泰山府君祭★

●一条天皇の時代に、大和国葛城上郡に貧家翁という者がいた。息子が重病にかかり手の施しようがなくなった。翁に頼まれた晴明が泰山府君祭を行い、翁と息子の寿命を取り替えた。しかし、翁の臨終のとき、翁が念仏を唱えていたために、仏の慈悲により翁の命も延びた。『私衆百因縁集』

●三井寺の智興内供が重い病気で重態に陥った。晴明は嘆き悲しむ弟子を見て、師の身代わりになるものがいれば泰山府君祭をしようと言う。自分の命を惜しむ弟子が多い中、証空が身代わりを申し出る。晴明が祈ると証空の具合が悪くなってきた。証空がこれを最後と不動明王の絵像に祈ると、不動明王が血の涙を流して「私がお前に代わろう」と言い、証空も師の智興内供とともに全快した。常住院の泣不動がこの時の不動明王である。『発心集』

『泣不動縁起絵巻』には、晴明の傍らに控える式神が描かれている。

★エピソード……道長★

●道長が法成寺を建立した後、毎日白い犬を連れて出かけた。ある日犬が道長を寺に入れさせまいとするので晴明を召して占わせた。晴明は「踏み越えたら不吉である。犬は神通力を持つ」と告げた。
地面を掘ってみると土器を二つ合わせて黄色のこよりで十文字にからげてあるものが出てきた。中には何もなく、辰砂(しんしゃ)で一文字書いてある。自分以外に知る人はいないはず。もしや道満かと、晴明が懐の紙を取り出し、鳥の姿に結んで呪文を唱え空に投げる。それはたちまち白鷺となって飛んでいき、六条坊門万里小路の古びた家に落ちた。その家は道満の家で、堀河左大臣顕光の命で呪詛したことを白状した。道満は播磨へ追放された。『宇治拾遺物語』
(『峯相記』では呪詛を指示したのは伊周であるとしている。また実際は、法成寺は晴明の没後に造営されている)

●道長が物忌みの時、南都から早生の瓜が献上されてきた。物忌みの時に外からのものを受け取るのはどうかと、晴明に占わせたところ、晴明は瓜の一つに毒気があると言った。僧正観修が加持するとその瓜がゆらゆらと動き、医師忠明が二箇所に針を立てた。源義家が刀を抜いて瓜を割ると、中に小蛇がとぐろを巻いており、忠明の針は左右の目に立ち、義家の刀は蛇の首を斬っていた。『古今著聞集』
(義家は時代が合わないので、頼光の誤り、または後世の作話だとされる)

●長保2(1000)年あたりから、道長の日記である『御堂関白記』にたびたび晴明の名が見えるようになり、二人の親密な関係が窺える。(年表参考)

★エピソード……結界★

晴明が在原業平の家に結界を張ったおかげで、火事があっても焼けることがなく、長い間そのままの姿を保っていたが、今のようなひどい世の中ではありがたい力の効き目もなくなるのか、残念ながら昨年の火事で焼けてしまった。『無名抄』

どんな結界なのか分からないが、おそらく『鎮宅護符』(最強の太上神仙鎮宅護符か)を貼ったと推測される。また業平と晴明は時代が異なるが、業平が昔棲んでいた邸ではないかと言われている。

★エピソード……五龍祭★

天変地異を司る自然神を鎮める儀式として様々なものがあるが、五龍祭は神泉苑でしばしば行われた雨乞いの儀式である。
長保6(1004)年7月14日、晴明が五龍祭を行い、夜になって大雨が降ったったという記録が『御堂関白記』に記されている。

寛仁2(1017)年に、息子の吉平も神泉苑で五龍祭を勤めた。雷鳴は轟くが雨は降らずという不名誉な記録が残されている。

★エピソード……意外な?一面★

永延2(988)年、8月5日、熒 惑星(けいごくせい 火星のこと)が軒轅(けんえん)を犯すという変事(凶兆)が発生した。一条天皇と皇后は物忌し、天台座主には修法が、慈徳寺には八万四千の泥塔の供養が命じられ、晴明が惑星の祭りを担当することになった
しかし、晴明は祭を行わず、摂政兼家から「過状」(始末書)の提出を求められた。『小右記』

★エピソード……猿も木から…?★

天元元(978)年7月24日、「雷震」があり晴明宅が破損している。『日本紀略』

先を見通す晴明も自分の事は分からなかった?

★エピソード……ライバル★

●播磨の国の道満が都に上がってきて、晴明と対決する。長持ちの中に何が入っているかを言い当てるのである。道満は大柑子が入っていると言ったが、晴明は術によって柑子を鼠に変えて勝負に勝った。
道満は晴明を殺そうと計略をめぐらすが。晴明は難を予見して無事だった。堀河顕光に頼まれた道長の呪詛が晴明によって露見し、道満は播磨に流された。『月刈藻集』(江戸時代)

●保憲の子光栄(みつよし)が「晴明は術法の者であるが、才覚は優れていない」と論じるのに対し、晴明は「保憲の時に自分より光栄を上にしたことはないし、百家集を自分に伝えたのは保憲が認めていた証拠だ」と言う。光栄は「百家集は自分のところにもあり、暦道をも自分には伝えている」と言い返す。『続古事談』

★エピソード……算術★

天文博士で算術を得意とした晴明が庚申の夜に参内した折、若い殿上人が余興をやっているところに召し出され面白いことをしてみせろと言われた。晴明は算木を取り出してみんなの前に並べたところその場にいた人たちは笑いが止まらなくなってしまった。人々が晴明に許しを請い、晴明が算木をしまうとピタリと笑い止んだ。『北条九代記』

★エピソード……延命★

●晴明の没年は寛弘2(1005)年だが、この時の死は二度目の死であり、晴明が生まれたとされる延喜21(921)年が本来の没年であるという伝承がある。
晴明が逝去の時、閻魔王宮に至って不動明王の力で閻魔王に交渉して蘇生することができ、85歳まで生きたというのだ。『真如堂縁起』

●一条院の時代、晴明が疫病神を祀って帰るとき、一条の小路で、香色の直垂を着て蘇合香の曲を歌う住吉大明神と行き会う。晴明が疫病にかかって死ぬはずのところを、明神が曲で疫病を四方に祓除して助けてくれたのであった。『体源抄』

★五芒星=晴明桔梗印=晴明星=セーマン★

晴明が考案したとされる。災禍や悪難から守護し邪気や妖魔を祓う。最後に中心に点を打つのを口伝とする。

西洋でも古くから同じ形がペンタグラムと呼ばれ魔除けとされた。旧日本陸軍はドイツ陸軍に倣って星印の紋章を採用し、軍帽のてっぺんに五芒星が縫いとりされ、階級が上がるほど記章の数が多かった。

五芒星が魔除けになるのは、陰陽五行の相剋を表しているからで、災いが侵入しても循環して浄化されてしまうためである。

セーマンと並んで魔除けになっているのがドーマンであり、蘆屋道満を表す。最後に中央に点を加えて十字とする口伝もある。九字は、古代中国の道家・葛洪によるもので、山に入る際に邪気を避けるための呪文がもとである。中国では、「臨兵闘者皆陣列前行」という。『抱朴子』

★説話★

晴明が歴史上に登場するのは五十代であり、その前半生は不明であるが、後継の陰陽師たちによって晴明が神格化されるにつれて、様々な伝説が作られた。

『ホキ抄』は『三国相伝陰陽カンカツホキ内伝金烏玉兎集』の注釈書で、その冒頭の「由来」が晴明の前半生を記し、後の晴明伝のもととなった。

仮名草子『安倍晴明物語』(浅井了意作、1662年)は『大鏡』『宇治拾遺物語』『月刈藻集』など先行作品の集大成である。

それらの伝説は、古浄瑠璃『信田妻(しのだづま)』(作者不明)や義太夫『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』(竹田出雲作、1734年初演)などの名作として、江戸時代前期に結実した。

晴明は、摂津国の安倍野の武士である安倍保名(やすな)が和泉国の信田(信太)森の白狐の化身である女と契って生まれた子だとされ、母の名は葛之葉(葛葉姫・信田姫・葛子の異名もある)という。
狐は茶吉尼(だきに)天の眷属で、稲荷神の使役神でもあり、不思議な霊力を持つと畏れられてきた。晴明の異能を強調するものである。
幼い晴明に狐の姿を見られた葛之葉が恥じ入って「恋しくば尋ねて来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛ノ葉」と障子に記して姿を消した。
「由来」では、晴明は常陸国猫島に生まれ、五、六歳まで猫島に住んでいたとする。陰陽道の大家である吉備真備が死ぬ前に阿倍仲麻呂の子孫に秘伝書である『金烏玉兎集』を授けたいと欲し、全国を探してついに晴明を見出すというものである。

★聴耳★

ある鳥獣を助けたことによって、呪宝を授かり、鳥獣の言葉がわかるようになるという昔話の「聴耳」のパターンが晴明伝説にも存在する。晴明の神秘的超人的な力を説明するためのものである。
「由来」では、鹿島神宮の祭礼に行く途中、いじめられていた蛇を助けたことが縁で龍宮に導かれる。龍王から、病気を治し、運命を変え、不老長寿となる秘符が入った石の匣をもらい、鳥の鳴き声を解し、予知ができる烏薬を耳に塗ってもらう。その後鹿島神宮の森で京都と鹿島の烏の会話を聞いて、天皇の病気が、寝殿を造営した際、鬼門の柱の下に閉じ込められた蛇と蛙が争っているためであることを知る。上京した晴明がこのことを訴えたが、未だ子供であるため、誰からも相手にされなかった。そこで晴明は
たちまち去るべき災難を 知らざるこその不便なれ
という歌を毎日往来で歌う。この歌が評判となり、晴明が内裏へと召された。晴明の言うとおりに蛇と蛙を取り除いたところ、たちどころに天皇は快癒した。
仮名草子『安倍晴明物語』にも同様の話が載っており、そこでは和泉の国に住んでいた安倍童子が住吉神社に参拝した折のことで、蛇は龍宮の乙姫の化身になっている。また「青丸」という秘薬を耳だけでなく目にも入れられ、あらゆる人の過去・現在・未来の運命が全てわかるようになったという。
助けた動物が亀であったり、龍宮の呪宝ではなく、母の残したアカザの杖であったり、天皇の病の原因が道満の呪術であるなどのヴァリエーションがある。

★エピソード……一条戻り橋★

橋は現実と魔界の境を象徴する通路であり、橋の下は異形のものが犇(ひしめ)く異界であると考えられていた。

戻り橋の名は、文章博士三善清行の死去の報を受けた子の浄蔵が橋の上で父の葬列に会い、嘆き悲しむと清行が蘇生した故事に由来する。『撰集抄』

頼光の四天王の一人、渡辺綱が鬼の片腕を斬り落とした場所としても有名で、鬼の手を見て頼光は晴明に相談し、晴明は綱に七日間の物忌みと「仁王経」を読むように忠告した。屋代本『平家物語』

晴明の使う十二神将を妻が怖がったので、使わないときは十二神将を戻り橋の下に呪し置いたということでも有名である。『源平盛衰記』

一説には式神を石櫃に入れて戻り橋の下に封じ込めていたとも言う。晴明の死後、戻り橋の下に封じられていた式神の子孫が、異形のものになったという伝説がある。

また、戻り橋の上で吉凶の橋占をすると、必ず橋の下の式神が人の口に憑り移り善悪を示したという。『源平盛衰記』

「由来」では、この橋のあたりで晴明が道満に殺害されている。宋に居る師の伯道上人がこれを知り、晴明の塚を掘り起こし白骨を拾い集めて生活続命(しょうかつぞくみょう)の法を行い蘇生させたという。 古浄瑠璃の『しのだつまつりぎつね』では、晴明の父、保名が道満に殺害され、打ち捨てられたのが、この戻り橋の橋げたの下である。野犬や烏が食いちぎって損傷の激しい遺体を前にして、晴明が招魂続命(しょうこんぞくみょう)の法を行うと、犬や烏がちぎれた腕や肉片を運んできて、保名が生き返った。

★安倍氏★

安倍氏といえば、高橋克彦ファンならばすぐに貞任との関係は? というのが気になるところであろう。
晴明を阿倍御主人の末裔とする系図は疑問があると言われてはいるが、晴明が吉志舞を奉仕していることから、大和国十市郡を本拠にした古代の豪族・阿倍氏とのつながりが考えられる。
この阿倍氏には、大化の改新で左大臣に任じられた阿倍倉梯麻呂(有馬皇子の祖父)、斉明朝で蝦夷を討ち、粛慎に兵を進めた阿倍比羅夫がいる。
一方の平安時代東北地方の豪族・安倍氏の系図の中に、阿倍氏と同じく大彦命を祖とするものがあり、両氏の間に何らかの関係が考えられる。
つまり、晴明は直接貞任との関係はないが、大和の阿倍氏を介して何らかのつながりが考えられるのである。
また、天社土御門神道本庁のある福井県名田庄村には、貞任の持仏を祀る薬師堂がある。

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晴明以後

保憲の子で晴明のライバルであった光栄(みつよし)は、一条天皇の死を予見したことでも知られている。一条天皇の皇子である敦康親王の御殿で瓦の投げられるような奇怪な音がした。光栄が吉凶を占い、天皇の物忌みが必要だと判断した。晴明の長男の陰陽助主計頭安倍吉平も、光栄の占いは当を得ていると支持したが、時の陰陽頭・秦文高は否定し、取り上げなかった。まもなく一条天皇は没し「光栄之占、如指掌」と賞賛されている。『権記』

光栄の没後、晴明の長男の吉平は従四位上、次男の吉昌は陰陽頭となり、父晴明を超えている。

吉平は予見に優れ、医師の雅忠と酒を飲んでいた時、吉平が「すぐに飲んでください。地震が来ますから」と急かした。すると直後に地震が起こり雅忠の杯の酒がこぼれたというエピソードがある。

以後吉平の子たちが陰陽寮の中で大きな力を持ち、賀茂氏と並び二大勢力となる。吉平の長男時親は、保憲の『暦林』の一部を俗説であると否定するほどの論客ぶりで知られている。

晴明の五代の孫である泰親(やすちか)は占いに通じ、「指神子(さしのみこ)」と称された。特に政治上の予言が次々に当たったことが『玉葉』などに記されている。また、落雷にあっても無事であったというエピソードもある。泰親は、しばらく賀茂家に独占されていた陰陽頭を、安倍家に奪還した。

鎌倉時代、幕府は安倍氏を多数招き、武家要人の護身や建築造作の安全祈願に当たらせている。

室町時代、安倍有世は足利義満に重用され、従二位という異例の位に上った。有世の系統が居住地にちなみ【土御門(つちみかど)】を称す。一方賀茂氏は在貞以降【勘解由小路(かでのこうじ)】を名乗った。勘解由小路(かでのこうじ)氏は室町末期に直系が殺害され後継が途絶え、このため土御門氏が暦博士と天文博士を兼務した。このころから陰陽道界における両家の支配体制は崩れ、民間陰陽師の活動が激化した。

土御門氏は応仁の乱の戦火を逃れて若狭国名田庄に三代に渡って在住したが、久脩(ひさなが)が関白秀次の祈願を引き受けたことから秀吉に弾圧され、家伝の陰陽道史料を殆ど失って没落した。

この陰陽道宗家を復興したのは家康で、名田庄にいた久脩(ひさなが)を京に戻し、賀茂家の流れを汲む幸徳井(かでい)友景を取り立てた。(陰陽師を扱った小説・漫画などに土御門・幸徳井の名が散見されるのはこのためである)
また、家康の懐刀といわれた天海は、陰陽道にも優れ、【徳川曼荼羅】とよばれる江戸の霊的防御を造ったことでも知られる。すなわち平安京と同じ四神相応、かつ、台地に囲まれた交差明堂形という大吉相を選び、鬼門には、京都御所の鬼門封じの比叡山を模した東叡山寛永寺を建立し、裏鬼門には、将門を祀る神田明神を移した。さらに裏鬼門の押さえとして日枝神社を移築した。

天和3(1683)年、土御門泰福(やすとみ)が諸国陰陽道支配の綸旨を受けた。これにより民間の陰陽師(陰陽師の職能を兼務する神道祀職家や修験者までも)をその支配下におき、造暦も任されることになった。幸徳井氏は暦注のみに携わるようになり、土御門氏が幸徳井氏を圧して実権を握っていたが、両家ともすでに政治的な影響力は絶たれていた。

『火城』に登場する【からくり儀右衛門】こと竹田近江も、この土御門氏と関係がある。彼は、精巧な和時計を造ったことでも知られるが、土御門家に入門し、御用時計師に与えられる近江大掾(だいじょう)の称号を授かっているのである。

江戸時代、しだいに凋落していった陰陽道宗家とは逆に、陰陽道は民間に浸透し、全盛期を迎える。

一方、明治三年十月十七日陰陽道廃止令(太政官布告七四五号)によって宮廷陰陽師の歴史は終わりを告げる。公的な舞台から姿を消した土御門氏の陰陽道は、旧領の福井県名田庄村に天社土御門神道としてひっそりと伝承され続けることになる。しかし、民間レベルでは、屠蘇、節分、雛祭、七夕、七五三などの行事や、祭り、迷信といわれているものとして、陰陽道は日常生活に驚くほど深く根を下ろしている。

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