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陰陽五行説


はじめに
陰陽説
五行説
陰陽論と五行の結合
五行の相関関係
五行の配当
十干十二支
最後に


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はじめに

陰陽道の根拠となっている思想が、古代中国で成立した「陰陽五行説」である。これは、「陰陽論」と「五行説」とを組み合わせて、宇宙から人事にいたる全ての現象を説明しようとする理論である。

「陰陽論」と「五行説」は、それぞれ発生基盤を異にしたものであったが、中国戦国時代の思想家 鄒衍(すうえん)が、この二つを融合させ、組織的に整理した。これは中国のあらゆる思想・哲学に影響を与え、日本に至っては、陰陽道の基礎理論となった。

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陰陽説

陰陽説とは、世界を対立する二元「陰陽」に還元し、森羅万象の状態を「陰陽」であらわそうとする理論である。

陰陽とは、「気」の二面性をあらわすものである。気とは、万物を形づくり、それに生命、活力を与える物質=エネルギーのことである。

「陽の気」とは、動・軽・剛・熱・明などの属性を持ち、能動的・攻撃的・昂進的状態に傾いているものをいう。一方、「陰の気」とは静・重・柔・冷・暗などの属性を持ち、受動的・防衛的・沈静的状態に傾いているものを指す。

また、陰陽は相対的な相を示す概念であり、陽は陰を含み、陰は陽を含む。万物は、ある状況下では陽と現れるが、同じものであっても違う状況のもとでは陰と現れる。つまり、陰陽は、絶対的なものではなく、時と所に従って、反対物へと転化することもありうる。蝋燭の火は、太陽の下では「陰」であるが、闇の中では「陽」となる。

つまり、「陰」と「陽」は対立する二元であるが、敵対するものではなく、宇宙の根源的実在である太極(たいきょく)によって統合されており、両者の交合によって万物が生まれ、その消長によって四季が形成される。また、両者は、たがいに引きあい補いあい、一方が進むと一方が退き、一方の動きが極点にまで達すると他の一方に位置をゆずって、循環と交代を無限にくりかえす。

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五行説

  

「木・火・土・金・水」の五元素によって自然現象や人事現象のいっさいを解釈し説明しようとする思想を五行説とよぶ。すなわち、あらゆる自然現象や人事を範疇ごとに五つに整理し、それぞれが五行のいずれかに帰属するとみなす理論である。

五行の「行」は、天のために気をめぐらすという意味で、五行の「五」の数は、木星( 歳星 (さいせい))、火星(熒 (けい)惑星 )、土星(鎮星 (ちんせい))、金星(太白星)、水星(辰星)という五つの惑星に根源がある。

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陰陽論と五行の結合

「五行」はもともとは万象を五つのグループに範疇化するために用いられて概念だったが、鄒衍(すうえん)が「陰陽主運説」(図1参照)によって、「陰陽論」と合体させた後は、「万物を成り立たせている五つの気の状態」というように理解されるようになった。

五行を陰陽で分けると、

木と火は「陽」

金と水は「陰」

土は「陰陽半々」という配当になる。

また、同じ「陽」の五行に属する木と火では、木のほうが陽気が弱いため、

木は「陽中の陰 」になり

火は「陽中の陽 」とみなされる。

同じく、金と水では金のほうが陰気が弱いため、

金が「陰中の陽 

水が「陰中の陰 」になる。

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五行の相関関係

  また、鄒衍(すうえん)は王朝の交代を五行の関係により理論づけた。彼によれば、各王朝はそれぞれ五行のひとつを賦与されており、新王朝への交代は必然的な理法に従って、次のような順になるという。それは、「火に勝つのは水、水に勝つのは土……」という順序である。これを「五行相剋(そうこく)説」という。のちに漢の劉垢 (りゅうきん)によって「水は木を生み、木は火を生み……」という「五行相生説」が提唱された。

このようにそもそも政治思想として発生したと考えられる五行の相関関係は、やがて王朝の交代以外のさまざまな自然現象や人事現象の説明に応用されるようになった。

五行相剋説

五行同士の関係を闘争の相のもとにみようとする理論で

木 → 土 → 水 → 火 → 金 → 木 のように循環し、

木は土中の滋養を奪い「木剋土(もっこくど)」

土は水流を封殺し「土剋水(どこくすい)」

水は火に勝り「水剋火(すいこくか)」

火 は金属を溶かし「火剋金(かこくごん)」

斧は木を倒す「金剋木(ごんこくもく)」というように読む。(図2参照)

五行相生説

相生説は、五行が対立することなく、順次発生していく様を説明する理論として生み出されたもので、

木 → 火 → 土 → 金 → 水 → 木というように循環し

木は摩擦により火を生じ「木生火(もくしょうか)」

火は灰(土気)を生む「火生土(かしょうど)」

土は金属を埋蔵し「土生金(どしょうごん)」

金属は表面に水気を生じ「金生水(ごんしょうすい)」

水は木を育む「水生木(すいしょうもく)」と読む。(図3参照)

この相生、相剋説の登場によって、五行の変化・運動を説明する理論が整った。

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五行の配当

五行の相関関係が、自然現象や人事の説明に応用されるようになると、森羅万象に「五行の配当」が行われるにいたった。すなわち、あらゆる自然現象や人事現象は範疇ごとに五つに整理され、それぞれが五行のいずれかに帰属するとみなされたのである。

五行 十干 十二支 五色 五方 月(旧) 五時 四神 五惑星
甲、乙 寅、卯 一、二、三月 青竜 木星
丙、丁 巳、午 四、五、六月 朱雀 火星
戊、己 辰、未、戌、丑 中央 土用 (人) 土星
庚、辛 申、酉 西 七、八、九月 白虎 金星
壬、癸 亥、子 十、十一、十二月 玄武 水星

五色

色は、青、赤、黄色、白、黒の五色に整理され、次のように五行を配当される。

青は「木」

赤は「火」

黄色は「土」

白は「金」

黒は「水」

青は青々と繁る木の色、赤は火の色、黄色は黄土、白は金属の光、黒は水が暗く低いところに集まるところからくる。

五方

方位は、東西南北と中央の五方に分けられ、これらは以下のように五行を配当された。

東は「木」

南は「火」

西は「金」

北は「水」

中央は「土」

これは、中国大陸を思い起こせば、解りやすい。東方は、太陽が昇る方向、南方は暑く、西方は白く輝く山々が有り、北方は冷たい地方とつながる。そして中央には、黄土に覆われた大地があり、黄色の肌の人間がいる。

四神

東西南北、四つの方位をあらわす象徴的聖獣を四神という。

東を「青竜」

南を「朱雀」

西を「白虎」

北を「玄武」で表す。

中国戦国時代前期に、「竜」と「虎」とが北斗や二十八宿などの天空上の星座と結びついて、四神の観念の基礎となるものが生まれた。この竜虎の組合せに、竜、鳳、麟、亀という四霊の観念が結合し、「朱雀」と「玄武」とが加わった。

四神には、五行に配当された五色が配当されている。(玄は黒の意)

「玄武」が、亀と蛇とのからみ合った図象で表されるのは、北方が五行思想によれば水であり冬の季節にあたるところから、冬至の時期に宇宙的規模の性的結合があって世界が再生すると考えられたことによる。

四神の図像は、一つの小宇宙を象徴するものとして中国以外の地域にも伝播し、日本の高松塚古墳などにそれを見ることができる。

この四神に、 「黄竜」を中央に配当したものを加え、五神とよぶことがある。

五時

五時とは、四季の終わりにそれぞれ「土用」を設けて、一年を五つに分けたもので、その各々に五行を当てはめる。

春に「木気」(青春)

夏に「火気」(朱夏)

秋に「金気」(白秋)

冬に「水気」(玄冬)を当てはめ

そして、 各々季節の終わりの十八日間に「土気」を用いる。これが、土用である。

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十干十二支

十干と十二支は、組み合わされて、方位や時刻を表したり、歳時や人事の変化運用にあてられた。また、 十干十二支の一つ一つがすべて五行に還元されるため、陰陽五行説に関連してここで述べる。

十干

十干とは、 甲 (こう)・乙 (おつ)・丙 (へい)・丁 (てい)・戊 (ぼ)・己 (き)・庚 (こう)・辛 (しん)壬(じん)・癸(き)のことである。これらは、植物の発生、繁茂、成長、凋落の過程の解釈から、植物が季節の推移にしたがって変化してゆくさまをあらわしているといわれている。

中国では、 一月 (ひとつき)を三分して十日(旬 (じゅん))とする日の数え方が、殷代から行われていた。十干はその十日の順序符号として用いられた。

また、十干は、五行を陰陽に分けた際に、次のように配当された。木の陽が甲、陰が乙。火の陽が丙、陰が丁。以下、同じ要領で土は戊・己、金は庚・申、水は、壬・癸である。

日本では、陽を「え(兄)」とし、陰を「と(弟)」とし、五行を加味した十干を次のように呼ぶ。

五行 陽(兄)(え) 陰(弟)(と)
木(き) 甲(きのえ) 乙(きのと)
火(ひ) 丙(ひのえ) 丁(ひのと)
土(つち) 戊 (つちのえ) 己(つちのと)
金(かね) 庚 (かのえ) 辛(かのと)
水(みず) 壬 (みずのえ) 癸(みずのと)

このように、「えと」はもともと十干の呼称であって、十干十二支の意で用いられたり、十二支の動物名の代名詞のごとき使われ方がなされているのは、本来の意味からすれば誤用である。

十二支

月齢の周期が一年約十二回繰り返されることから、一年を十二の段階に区分し、その上動物の神聖観を絡ませて十二支が考え出された。

十二支の十二獣への配当は、和訓もあわせて記せば次のようになる。

うし
とら
たつ
うま
ひつじ
さる
とり
いぬ

十二支獣は、西アジアの占星術として発達した十二宮(黄道十二宮)が、インドから仏教などを通じて中国にもたらされたのではないかといわれる。

十二支と十干は、組みあわされて六十干支として、日を記すために用いられていた。十干と十二支の組みあわせは百二十通りできるが、その半分にとどめたのは、百二十日のサイクルでは長すぎると思われたからであろう。その規則は、十干を甲乙・丙丁・戊己・庚辛・壬癸の五組とし、それに配すべき十二支は、その一組の一方と組めば他の一方とは組まない、というものであった。たとえば〈甲子〉〈乙丑〉という組みあわせはあっても、〈甲丑〉〈乙子〉というのはない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未
21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳
31 32 33 34 35 36 37 38 39 40
甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯
41 42 43 44 45 46 47 48 49 50
甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌 辛亥 壬子 癸丑
51 52 53 54 55 56 57 58 59 60
甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥

この六十干支は戦国時代以降、日のみならず年や月の表示法としても使われるようになる。

年の表示法

年の表示法としては、紀元前104年に官暦第一号として太初暦が公布されたが、当時はこの年を丙子と数えた。後には丁丑に改められ、それ以後、干支表の順に年を数えて現在に至っている。

月の表示法

月の表示法としては、中国暦では冬至を含む月を十一月とすることが一般に行われ、この月を子月と呼ぶ。なぜ、十一月が子月かというと、太陽の力が、冬至→春分→夏至→秋分→冬至という強弱の循環を示すので、「冬至」のある十一月が、十二支の始まりの「子」ということになる。以下十二月を丑月、正月を寅月と呼んだ。

さらに月名に十干を加えてあらわすが、その配当は年の干名によって各月の干名が決定された。

正月にあたる寅月についていえば、

甲・己年の場合は「丙」、

乙・庚年の場合は「戊」、

丙・辛年の場合は「庚」、

丁・壬の年の場合は「壬」、

戊・癸の年の場合は「甲」となる。

例えば干名が甲である年の寅月は丙寅月と呼ばれた。

時刻、方位

さらに、十二支は、時刻、方位を表すためにも用いられた。(図4、5参照)

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最後に

以上概説した陰陽五行説は、「易」や「讖緯(しんい)説」と結びついてさまざまな予言術を生み出した。また、儒学に採用されて、自然界だけでなく歴史をはじめとする人事一般の推移を説明する原理となり、天地万物の生成もそれによって説かれるようになった。さらに、兵法、医術、暦などにも基礎理論を提供し、中国の哲学や科学の基礎理論となった。

陰陽五行説は日本に至っては陰陽道を成立させ、日本の文化のあらゆるレベルに浸透し、茶道・華道・各種の芸能・剣道などの武道・また、さまざまな迷信などにその理論を見出すことができる。

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