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聖徳太子と陰陽道

聖徳太子、死後千三百数余年その名は忘却されることなく、広く民衆に根ざして脈々と語り継がれてきた。それは、太子信仰の発生と、最澄、親鸞ら仏教者たちの熱烈な支持により、太子が日本の仏教所宗派共通の祖師として崇められてきたことに拠るところが大きい。このため、太子は、仏教思想家としてとらえられ、その政治的思想も仏教的解釈から、光が当てられてきた。しかし、その業績には、陰陽道の影響が認められるという指摘がある。太子の謎に満ちた生涯と、数々の伝説も、陰陽道という思想を通して見るとき、新しい意味を持って見えてくる。

そもそも、聖徳太子が陰陽道思想を受容していたと指摘した人物は、「魅鬼」中に鬼として登場する、三善清行である。彼は、『革命勘文』の中で「十七条憲法は推古12(604)年、甲子(かっし)の年に発布されているが、これは、甲子(かっし)の年には天命が革まるというの讖緯(しんい)説基づく」と主張した。村山修一氏や、岡田正行氏らもこの説を支持している。
条文の数十七について岡田氏は、『管子』『春秋緯書』の陰陽五行説に基づき、陰の極数八と、陽の極数九の和がその根拠であると言う。また藤田清氏は、『管子』には、「天道は、九を以って統制し、地理は八をもって統制する」という表現がみられることを挙げ、実際の憲法の条文が、天にあたる九条までは命令形で、地にあたる八条が禁止形という特徴を持っていると指摘する。
さらに、憲法第一条「和を以って貴しと為し」について村山修一氏は、「その根源は陰陽和合の発想に到達する」と、述べている。また、「この憲法は、決して仏教布教や教義の解釈を目的としたものではなく、国の内外とも非常事態にあった当時の日本を、普遍的な思想で協力に固めていこうとしたところにねらいがあり、その骨組みとなった理論や理念に陰陽道が重要な役割を果たしている」とその意義を説明している。 同じく太子の業績の一つとされる冠位十二階にも、陰陽五行説が大きく影響しているという指摘がある。まず、冠位十二階の序列は、儒教の徳仁義礼智信ではなく、『管子』の五行説による徳仁礼信義智であること。また、各階級の冠の色も、五行に配当された色をもって定められていること。つまり、木に配した大仁・小仁には青、火に配した大礼・小礼には赤、土に配した大信・小信には黄、金に配した大義・小義には白、水に配した大智・小智には黒の色が当てられているとする。これは、陰陽五行を調和し、妖変を去り、祥福を招くためであり、十二階の十二は天帝のいる太一星をとりまく十二の衛星を意味したと解釈されている。

陰陽道の日本への伝来は、『日本書紀』継体天皇7(513)年、百済からの五経博士の献上として記されている。また、欽明天皇14 (553) 年には、百済に対して、医(くすし)博士、易(やく)博士、暦(こよみ)博士の交代と、卜書(うらのふみ)、暦本(こよみのためし)の献上を要求している。これは朝廷の陰陽道摂取が、欽明天皇の時代においてすでに活発化していたということを示すものである。また、『書紀』よりも古い七世紀末に一部が成立した『上宮聖徳法王定説』には、太子は「中国道教における老子、荘子、周易の三玄、儒教経典の易経、書経、詩経、礼記、春秋の五経の旨を知り、あわせて天文地理の道にまで通じていた」と記されている。
大陸の先進文化に興味を持ち、これを理解し自己のものとして消化する素地を持つ太子が、陰陽道の理念をその政治理念に織り込んだことはむしろ当然のことといえる。

聖徳太子の死後、太子信仰の発生とともに、『聖徳太子伝暦』を初めとする、多くの太子伝が成立し、太子の聖人化が進んでゆく。数々の太子伝に共通する超人的能力として挙げられるのは、未来に対する予知能力である。予言者としての太子に焦点を当てた書が、太子の名を冠した有名な偽書『未来記』である。
なぜ聖徳太子に予知能力があると信じられてきたのか。その根本的な拠り所は、『日本書紀』にみられる以下の記載である。
太子は「兼て未然(ゆくさきのこと)を知ろしめす(未来の出来事を予知する)」と。
これを『伝略』では仏教に通達したものが得るとされる神通力の一つ、未来を見通す天眼通が備わっていたと解釈する。しかし、『上宮聖徳法王定説』の記述から、太子は陰陽道のバイブルともいうべき『易経』を理解していたと思われ、陰陽道の式占により未来を予言していたという可能性も十分考えられる。このような仮説に立つと、式占盤を回し、その符号を読み取って未来を占う太子の姿が浮かんでくる。

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