鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関、およびその長。
承久の乱の際、幕府軍を率いて上洛した北条泰時と時房が、六波羅の北・南の館に駐留し、乱後の処理に当たったのが起源である。
探題の職は執権・連署に次ぐ重職であり、その後も北条氏の一門から探題が選任され、これを六波羅北方(北殿)、六波羅南方(南殿)とよんだ。両者の中では北方が上席であり、南方にはしばしば欠員があった。
六波羅にはかつて平氏の館があったが、後に源頼朝に与えられ、六波羅探題はこの跡地に建てられたものと思われる。
義時の死後、泰時と時房が鎌倉に帰ると、代わって二代目六波羅探題として上洛したのが、それぞれの長男である時氏、時盛であった。時頼は京都で生まれている。
1264年南方に赴任した北条時輔は、時宗が執権となったのを不満としていた。72年時宗は時輔の与党名越時章、同教時らを鎌倉で討ち、さらに六波羅北方義宗に命じて時輔を討たせた(二月騒動)・・・とされる(^^
1333年(元弘3)後醍醐天皇によって六波羅は攻略され、北方の北条仲時・南方の時益両探題は後伏見・花園両上皇、光厳天皇を奉じて逃走したが、時益が討死し、仲時らも近江の番場で自害し、ここに六波羅探題は完全に滅亡した。