『時宗』 report 巻の壱 乱星
兄であり、北条得宗家の頭領であり・・・
   ┌経時
時氏─┤
   └時頼

経時
時頼
得宗
母方の従弟である泰盛を・・・
┌安達義景──泰盛
│
└松下禅尼 ┌経時
   ‖──┤
 北条時氏 └時頼
北条氏は初期は三浦氏との、末期は安達氏との通婚が多い。
泰盛
父親を早く失った時頼と経時は・・・
第二代の六波羅探題として6年間京都にいた時氏は、1230年(寛喜二)4月11日に病気のため鎌倉に帰り、6月18日28歳で死亡。この時経時は6歳、時頼は3歳。
以後、祖父の泰時が経時と時頼を見守ることとなる。
      ┌経時
泰時─時氏─┤
      └時頼
大殿とは二年前に将軍職を嫡子である頼嗣に譲って退いた頼経公のことである・・・
         九条道家
           ‖
    西園寺公経  ‖───頼経─頼嗣
       ‖   ‖   ‖
一条能保   ‖───綸子  ‖
 ‖     ‖       ‖
 ‖─────全子      ‖
┌女             ‖
│              ‖
└頼朝────頼家─────竹御所

藤原(九条)頼経

【経時VS頼経】
1244.4.20頼嗣元服 頼経は将軍職を頼嗣に譲る
1244.9.19頼経側の執拗な抵抗を押し切り、来年2月9日に頼経が鎌倉を出立すると決める。
1244.11.3洪水
11.12凶兆
11.22凶兆
12.1地震
12.18凶兆。頼経の館で祈祷
12.26火事。頼経上洛のために用意したものが焼失。上洛は無期延期
1245.5経時が病気に
7.26強引に頼嗣と檜皮の結婚
9.4経時の妻死亡。
11.4来年2月14日に頼経が鎌倉を出立すると評定衆で決める。
1246.2.13出立の前日、頼経の発意で出立を延期(無期限)。 その直後、本来は将軍が行う幕府の公式行事の二所参詣に出発。
以後、経時の病状は悪化し、ついに出仕することはなかった。
3.23経時の病間で「深秘の沙汰」
祖父の泰時を軸にして眺めれば、朝直は祖父と従弟にあたり、政村は祖父の弟である・・・
    ┌泰時─時氏─時頼
┌義時─┤
│   └政村
│
└時房──朝直
泰時
時頼の館は安達一族の住まいする甘縄郷にある。・・・
・・・ここから鶴岡八幡宮に真向かう経時の屋敷までさほどの遠さでもないが、琵琶小路から若宮大路という本道を辿るのは憚られた。途中に御所があり・・・
    鶴岡八幡宮
  ────┼────
      │  泰時→経時の屋敷
      若────
      宮  御所
      大
      路
  ────┼────
      琵
      琶
      小
      路
甘縄郷───┘

出羽は面白かったか?・・・
泰盛の祖父景盛が秋田城介に任ぜられてからは、安達氏がこの職を世襲した。
実時は・・・時頼から見ると父親の従弟に当たるのだが・・・
┌泰時─時氏─時頼
│
└実泰─実時
実時
【実時のエピソード】
1241年11月25日、邸での酒宴の際、泰時が経時と金沢実時に、お互い「水魚の思い」を成すよう命じる。
「好文を事として、武家の政道を扶くべし。かつは陸奥掃部助(=実時)に相談ぜらるべし。およそ両人あいたいがいに水魚の思いを成さるべし」
あれほど強健であったお人・・・
【経時のエピソード】
・駿河藍沢での狩りに熊を射止めた
・しばしば山内庄内の山林を駆け回って兎狩りをした
都警護の要である六波羅探題の長官は政村の兄の重時に・・・
    ┌泰時─時氏─時頼
┌義時─┼重時
│   └政村
└時房
六波羅探題
重時
「光時と三浦の一族に決まっておろう」
幕府成立以来の諸事件の背後には、いつも三浦氏が存在しており、北条氏の不安の種となっていた。
滅亡した御家人詳細結果三浦氏の関与
梶原景時の乱 梶原氏 梶原景時が、頼朝を懐かしんだ結城朝光を源頼家に讒訴するが、朝光は諸将と連署してその誣告を訴える。景時は、和田義盛らの弾劾を受けて鎌倉を追放され、翌年上洛の途についたが狐崎で戦死。

(朝光に景時のことを漏らして弾劾の端緒を作った阿波局は、政子の妹)
頼家は、彼の権力を支えていた柱を失う。 讒訴された結城朝光は親友の三浦義村の邸に駆け込んだ。義村は、逆に景時を弾劾しようと回文を廻して、八幡宮に参集せよと布告した。
比企氏の乱 比企氏 能員の妻や義妹は頼家の乳母で、娘若狭局は頼家の妻であり、長子一幡を生んでいた。 頼朝の死後、外祖父として勢力の伸張をはかる北条時政らに対し、頼家は比企氏と結んでこれに対抗しようとした。
1203年頼家が病に倒れると、次の将軍に頼家の弟千幡(実朝)を擁立しようとする北条氏と、頼家の長子一幡につがせようとする頼家・比企氏との対立は頂点に達し、能員は時政の名越邸で謀殺された。

(頼家の側近で頼家の暴虐に関係した中野能成は時政によって所領安堵され、報償も受けているため、時政のスパイだったと考えられている。ちなみに実朝の乳母は政子の妹・阿波局)
頼家は出家、伊豆修善寺に幽閉され翌年刺殺された。
畠山重忠の乱 畠山氏・稲毛氏 畠山重忠は時政の先妻の娘婿。平賀朝雅は時政の後妻・牧の方の娘婿である。京都守護として在洛中の平賀朝雅が酒宴の間に畠山重保(重忠男)と争い、重保を牧の方に讒訴。翌年6月時政夫妻は、義時や時房らの制止にもかかわらず、重忠・重保父子を滅亡させた。 時政と義時や時房らの対立が明らかになる。 畠山重保は、「謀反人は由比ヶ浜」との叫び声に取るものも取り合えず由比ヶ浜に走り、待ち構えていた三浦義村によって殺された。
牧氏の変 北条時政の後妻牧の方が、夫と謀って名越邸にいた将軍源実朝を殺害して、女婿で頼朝の猶子となっていた平賀朝雅を将軍に立てようと企てた。政子と義時は、実朝を大蔵郷の義時邸に迎え入れたため、御家人たちは義時側に組した。時政は出家し牧の方とともに伊豆北条に隠退させられた。京都の朝雅は討手を向けられて自殺した。 義時が執権職を継いだ。 三浦義村は実朝を大蔵郷の義時邸に移した。
和田合戦 和田氏 源頼家の遺児千寿を擁して将軍となし、義時を除こうとする泉親衡の陰謀が露見した。逮捕された中に和田義盛の子息義直・義重、甥の胤長が含まれていた。義盛は彼らの赦免を懇請したが、胤長だけは赦されず、一族の面前を縛縄のまま陸奥に流罪。鎌倉の彼の屋敷も、間もなく没収され義時が拝領してしまった。義時による重ね重ねの挑発に、義盛もついに意を決して挙兵の準備を急いだが、同族の長にして盟友と頼んだ三浦義村が直前になって相手に寝返ったため、予定を変更。地方からの同志の到着を待たずに150騎だけでにわかに蜂起した。翌日、相模、武蔵の同盟軍が到着して奮戦したが、乱軍のうちに敗れ、一族親類ともに全滅した。 義時は従来の政所別当にあわせて、義盛の保持していた侍所別当をも兼任した。
また、論功の結果、鎌倉の後背地として重要な山内荘が義時に与えられ、鎌倉にことあるごとに自領の兵力を恃みにすることができるようになった。また、このことは鎌倉を挟んで山内荘と対称的な位置にある三浦氏との対立をも産む。
三浦義村は和田氏と同族の三浦党の惣領で義盛の甥にあたるが、これを裏切り、義盛挙兵を義時に最初に知らせたのが義村であった。
実朝暗殺 実朝が右大臣昇任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、兄頼家の遺子・同宮別当公暁によって暗殺された。実朝の御剣を持って供奉していた義時は、直前にその役を源仲章に譲って退出し、代わった仲章は実朝とともに斬られて死んでいる。公暁は実朝の首級を携えて三浦義村邸を目指したが、義村が発した討手に出会い討ち果たされた。 幕府は親王将軍の東下を要請したが、九条道家の三男で、頼朝の遠縁の三寅(のちの頼経)が次の将軍に決定した。 従来は御剣役を急に代わって助かった義時が事件の黒幕として考えられてきたが、実朝と義時を同時に殺害し、公暁を将軍に、自らは執権になろうとした義村の陰謀だとする永井路子氏の説が有力である。ちなみに公暁の門弟に義村の子(のちの光村)がいた。
承久の乱 後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ、逆に幕府軍に大敗・鎮圧された。 源平合戦の時の6倍もの所領が没収された。六波羅探題を置いた、 後鳥羽上皇は反義時勢力の巨頭と思われた義村に義時追討の密書を送ったが、義村はこの密書を義時のもとに持参した。
伊賀氏の変 北条義時の死後、後妻伊賀氏(伊賀守藤原朝光女)は兄弟の政所執事伊賀光宗と謀り、自分の子の北条政村を執権にし、女婿の藤原実雅(一条能保の子)を将軍に立てて幕府の実権をにぎろうとし、義時の長子泰時を執権にしようとする北条政子と対立した。 伊賀氏らは幕府最大の豪族三浦義村を味方にして野心を実現しようとしたが、機先を制して政子は泰時を執権に指名するとともに義村を説得してしまったため、伊賀氏らの野望はついえた。 泰時が執権になったがその権力は不安定であり、父の遺領配分に際しては弟妹に多くを与え、政村を厳罰に処することはできなかった。また、義時の法名である得宗をもって嫡流を誇示する権威付けを行った。 義村は政子に説得され、離反した。義村は政村の烏帽子親で、事件の後、泰時を威圧しつつ政村を弁護したためか、政村は何の咎めも受けなかった。

代々の得宗は常に三浦氏と婚姻関係を持ち続け、味方に誘い込むことによって勝利を得てきた。しかし経時の時点では、両家の間に婚姻関係は途絶えていた。

三浦義村─┬─矢部禅尼  
     │  ‖──時氏
     │ 北条泰時
     │  ‖───女
     │ 安保の方 ‖
     │      ‖
     └─────泰村
【泰時と三浦氏の関係】
泰時は、
泰村の元服の際烏帽子親を務める。
1212年以前に義村の娘(矢部禅尼)と離縁している。
1226年には孫の経時の妻を三浦氏からではなく宇都宮氏から選んだ
1229年に、泰村に嫁していた泰時の娘が死んで、得宗家と三浦氏の婚姻関係は断絶した。
二代執権義時は七人の男子に恵まれ・・・
 阿波局
 ‖───────泰時─時氏─時頼
 ‖
 ‖ 比企氏(姫の前)
 ‖ ‖────┬朝時─光時
 ‖ ‖    └重時
 ‖ ‖
 ‖ ‖ 伊賀氏─政村
 ‖ ‖ ‖
 義   時──┬実泰─実時
        ├有時
        └時尚

承久の乱前後に義時は鎌倉周辺の要所に息子たちを配した。
山内庄(得宗領)─┐鶴岡八幡宮
         └──┬──────六浦(金沢)←実泰
            │
            │
            │
            │
            │
重時→極楽寺──────┴──────名越←朝時
           由比ガ浜
幕府御家人の中でも北条に匹敵する兵力を有する三浦一族が光時と大殿に肩入れして・・・
三浦氏は相模で最大最強の兵を鎌倉に隣接する三浦半島に擁している。
時房は補佐役としての役目を見事に貫いて甥の泰時の支えとなった・・・
時房
執権を補佐する連署は、泰時が叔父時房を任じたのが最初である。
【時房のエピソード】
1239年(延応1)4月泰時が重病のとき、時房は平然として酒宴を続け、非難を受けると「自分が安心して酒宴できるのも泰時のおかげである。もし泰時が死んだら私も遁世するから、これが最後の宴となるだろう」と語ったという逸話が示すように、終世変わらず泰時の忠実な協力者であった。
朝時兄もそれを悟って泰時兄がみまかると即座に出家の道を選んだ・・・
【泰時・朝時のエピソード】
1231年朝時の邸に賊が押し入った時、評定の席にあった泰時がその場から駆け付けた。後で幕府重鎮の身で軽率に過ぎると諌められた泰時は「只今越州(=朝時)敵に囲まれるの由を聞く。他人は少事に処するか。兄の志す所は、建暦の和田合戦、承久の大乱に違うべからず」と答え、これを伝え聞いた朝時も「子孫にいたるまで武州(=泰時)の流れに対し、無二の忠を抽んで、あえて凶害を挿むべからず」と誓ったという。
しかし、泰時と朝時の仲は良くなかったらしい。死に臨んだ泰時が出家すると、これに殉ずる者50人余りも続いて出家した。翌日夜になって朝時も出家した。「兄弟といえども日頃疎遠なるに、たちまちにこのことあり。子細もっとも不審。世をもって驚く」と京の公卿は日記に記している。
(『吾妻鏡』は重大事があたっときは決まって欠落している。逆に欠落している時に、北条氏にとって都合が悪いことがあったと考えることもでき、泰時の死後に事件があったことを示唆する)
この病い……なにかの毒と思う・・・
経時が発病した直後、すでに京都では鎌倉の異変が取り沙汰されており、その後鎌倉から密使が京都に着き「必ずや、ことあるべし」と密々に申したということを、公卿が日記に記している。鎌倉で何かが企てられていたらしい。
ほぼ同じ症状で経時の正室が半年前に亡くなっているのだ・・・
泰時─時氏──経時
       ‖
 宇都宮泰綱─女
北条氏は初期は三浦氏との通婚が多い。しかし泰時は、孫の経時の妻を三浦氏からではなく宇都宮氏から選んだ
檜皮とは新将軍に嫁がせた妹である・・・
            ┌経時
┌義時─泰時─北条時氏─┼時頼
│           └檜皮
│            ‖
│      九条頼経──頼嗣
│       ‖
└政子─頼家─竹御所
頼嗣と檜皮の結婚の当日は陰陽師が「天地、相去るの日なり」という凶日であったが、経時は密かに妹を将軍御所に送り込んで結婚を強行した。
竹御所が1234年32歳で死んだ後、将軍と北条氏の姻戚関係はなくなっていたが、この婚姻によって経時は将軍外戚の地位を回復したのである。
桂子は時頼の父時氏の妹である・・・
・・・はじめ父親泰時の従弟に当たる朝直に嫁ぎ・・・今度は自分と従弟の関係の光時の妻となった。
・・・北条政子は、桂子から見れば祖父義時の姉である。
┌政子
│       ┌時氏─時頼
│   ┌泰時─┤
├義時─┤   └桂子──┐
│   │    ‖   │
│   └朝時──光時  │
│            │
└時房──朝直──────┘
「孫らはどうなります?」「ともに出家させるつもりかと」・・・
   ┌頼助
経時─┤
   └隆政
経時の子は二人とも仏門に入り、頼助は鶴岡八幡宮寺の別当になり52歳で死んだ。、隆政も権律師になった。
兄者は幼き頃より得宗家を継ぐべき人として育てられてござる・・・
経時は11歳で小侍所別当、18歳で評定衆となっており、跡を継ぐべき者として特別に泰時が目をかけていたらしい。

また、経時は時氏の長男だったから、輩行仮名は「太郎」とすべきであった。
(父時氏が泰時の長男だったから、又太郎あるいは弥太郎、小太郎でもよい)
しかし、経時は「弥四郎」であり、「四郎時政」「小四郎義時」にちなんだものと考えられる。祖父泰時の経時に対する期待が窺われる。
光時に従っている者の中には弟の時幸、教時二人も加わっている・・・
大友能直─女  ┌光時
     ‖──┤
     ‖  └時幸
┌義時──朝時
│    ‖───教時
└時房──女
光時は気を通じている三浦光村の隣に腰を据えた。その兄である泰村は・・・
     ┌泰村
三浦義村─┤
     └光村
名越の時章どのが明日にでも対面したいと・・・
・・・得宗家には異心がないと申してからのことにござる。時長どのと時兼どのもさようであるとか・・・
大友能直─女  ┌光時
     ‖  ├時章
     ‖──┼時長
     ‖  ├時幸
┌義時──朝時 └時兼
│    ‖───教時
└時房──女
常陸の関政泰どの、上総の千葉秀胤どの、武蔵の春日部実景どの、下野の宇都宮時綱どの、それに相模の毛利季光どのまで・・・
     ┌泰村
     ├光村
三浦義村─┼家村
     ├女(関政泰室)
     ├女(毛利季光室)
     └女(泰時室 後に盛連に再嫁)

実時は政村の娘を妻として娶っている・・・
政村─金沢殿 ┌顕時
    ‖──┤
   実時  └実政
宗像の所領が三浦の預所となったのは・・・
承久の乱後、宗像荘は将軍を領主とする関東御領となり、現地を預かる地頭には三浦氏本宗が任じられた。三浦合戦の後は時頼が地頭となり得宗領になっている。
時頼の母方の祖父景盛は義景の父である
     ┌義景───泰盛
安達景盛─┤
     └松下禅尼
       ‖───時頼
      北条時氏
安達氏は、景盛の父盛長が源頼朝の乳母比企尼の娘を妻とした関係で、挙兵以前から頼朝に近侍し、信任を得て有力御家人となる。
景盛は将軍源実朝の死により出家し高野山へ入る。
毛利季光は頼朝公の知恵袋として鎌倉幕府の屋台骨を築いた大江広元の子である
大江広元──毛利季光
       ‖───涼子
三浦義村───女   ‖
           ‖
           時頼
西中国の中・近世大名である毛利氏は、大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り、季光がここを苗字の地としたのに始まる。
大江広元
泰村の妹は盛時の父親である盛連に嫁ぐ以前、時頼の祖父の泰時の妻であったのだ
        ┌──泰村
        │
        │  北条泰時
        │    ‖──時氏──時頼
 ┌義澄─義村─┴──矢部禅尼
 │           ‖──盛時
 └義連(佐原)────盛連
聞けばだいぶ慎ましくお暮らしとか・・・
【エピソード】
執権時頼を甘縄第に迎えるに際し、みずから障子を補修したが、破れている個所だけの切り貼りをしたのであちこちにまだらができてしまった。これを見た兄の義景が
「皆を張り替へ候はんは、はるかにたやすく候べし。まだらに候も見苦しや」
と訊ねたのに対し、
「今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心つけんためなり」
と答え、質素倹約をすすめたという『徒然草』の話は有名である。

その教えの甲斐あって?時頼のこんなエピソードもある。
北条一門の大仏宣時は、時頼からすぐに来るようにいわれたが、直垂がなくて手間どってしまっていた。
「直垂などの候はぬにや。夜なれば異様なりとも疾く」
と強く催促されたので、よれよれの直垂で、ふだんのままで参上したところ、時頼が銚子と素焼きの杯を持って
「この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給ヘ」
と、酒の肴を探してくれないかと頼まれた。宣時が、小さな素焼きの皿に付いた少しの味噌を見つけたところ、
「事足りなん」と言って、二人で酒を飲んだという。

北条一族の質素な生活が見える。
だからこそ養子縁組の件も持ち出した次第・・・
時頼は、泰村の次男で9歳だった駒若丸を養子にしたいと申し入れた
祖母を介して手前にも三浦の血が・・・
     ┌泰村
三浦義村─┤
     └矢部禅尼
       ‖
       ‖──時氏──時頼
      北条泰時
関や宇都宮が揃えた兵を鎌倉から追いやってしまえば三浦の手勢はいくらになる?・・・
3代執権泰時は18年の執権在位中に、鎌倉―三浦半島を通じる小坪路と名越坂に堅固な要塞を築いていたため、この時三浦勢が鎌倉に殺到してくることは殆どありえなかった。すでに鎌倉にいる三浦側の兵力が問題だったのである。
二階堂に暮らす光村を呼び寄せるよう・・・
・・・泰村の館は鶴岡八幡宮の裏手にあって、八幡宮の正面に位置する時頼の館とは広い境内を挟んで向き合っているという形だ・・・

・・・光村は必ず援護に駆け付ける。二階堂大路の封鎖が・・・

・・・二階堂大路の突破もままならぬ状態で途中の永福時に立て籠もる形をとらされて・・・

・・・「法華堂だと!」その堂は三浦の館と永福時のちょうど中間に位置する・・・

    泰村邸├──┐    
       │  │法華堂      永福時  ┌──→二階堂
       │  ├─┴─┐       ┌──┘
       │  │   │    ┌──┘二階堂大路 
       │  │   │ ┌──┘
鶴岡八幡宮  │  │   ├─┘ 
──┼────┴──┴───┴───────
  │ 経時の屋敷
  若────
  宮 御所
  大
  路
隆弁は鶴岡八幡宮の別当・・・
三浦合戦の直後、鶴岡八幡宮の別当が法務定親から隆弁に代わった。定親は泰村室の兄弟であったためである。
重時に涼子をいったん預けるという策を思いついた・・・
時宗の母に関して、毛利季光の娘説と北条重時の娘説がある。 吾妻鏡では、延応元年(1239)11月2日(時頼が執権になる前)に毛利季光の娘と時頼の結婚が載っているだけで北条重時の娘と婚した、という記事は載っていない。
『時宗』では、この二つの説をうまく合わせて毛利季光の娘、北条重時の養女ということにしたものと思われる。
三浦討伐にさして働きのなかった重時が連署となったのも原因している・・・
連署とは、執権を助けて政務を行い、執権とともに幕府発給の文書に署判するところからこの称がある。執権と合わせて両執権などということが多かったが、執権と連署の権限は同等でなく、あくまでも補佐役であった。
執権泰時が時房を連署としたのが最初で、初代の時房が死ぬと、泰時・経時ともに後任を置かなかったので、空席となっていた。
宮騒動直後、時頼は重時を連署に据えたいと三浦泰村に相談して、断固反対され、この時は諦めている。
三浦合戦の後、重時は鎌倉に帰り、泰時が執権館としていた館に入り、連署となった。重時が去った後の六波羅探題には重時の次男長時が任じられた。
讃岐は三年前に宝寿丸という男子を生み落としたのである・・・
讃岐
 ‖─宝寿丸(後の時輔)
時頼
 ‖─正寿丸(後の時宗)
涼子
足利泰氏である。源義家の血を受け継ぐ足利氏五代目棟梁であるばかりか、その祖母は尼将軍政子の妹であり、正室には、先年亡くなったものの。時頼の妹を迎えている・・・
・・・時頼の妹を正妻に迎える以前に名越の光時の妹を妻として長男の家氏を産ませている・・・

・・・泰氏どのの子、利氏は手前の甥にも当たる・・・

・・・ご隠居召された義氏どののお力は計り知れぬ・・・

                     ┌光時
                名越朝時─┤
                     └桔梗
                       ‖─家氏
源義家─義国─義康(足利)─義兼──義氏──泰氏
               ‖   ‖   ‖
           ┌───女   ‖   ‖─利氏(頼氏)─家時─貞氏─尊氏
      北条時政─┤      ┌女   ‖
           └義時─泰時─┤   ┌女
                  └時氏─┤
                      └時頼
九条道家は前の将軍頼経の父である・・・
      ┌九条教実
九条道家)─┼二条良実
      ├─頼経───頼嗣
      └一条実経
道家は三度も摂政の地位にあり、彼が摂政でない時も、その子が摂関であることが多かった。 朝廷での道家の権勢は巨大であった。道家は、鎌倉にいる息子の頼経に幕府の実権を掌握させ、京都の道家、鎌倉の頼経という形で全国を制覇しようと図っていた。
そなたは長時どのとは義兄弟・・・
          ┌長時(赤橋)
北条重時(極楽寺)─┤
          └梨子
           ‖
           安達泰盛
内裏を牛耳る後嵯峨上皇はきっとお喜び召さるはず・・・
     ┌宗尊
後嵯峨88─┼後深草89・・・持明院統
     └亀山90・・・・大覚寺統
三男の恒仁親王(後の亀山天皇)は後嵯峨上皇に偏愛されていたために、 長男でありながら三ノ宮とされ、父後嵯峨上皇の愛情が薄かった宗尊親王を選んだと考えられる。
参考文献
『鎌倉北条一族』奥富敬之 新人物往来社
『時頼と時宗』奥富敬之 NHK出版
『中世都市鎌倉を歩く』松尾剛次 中公新書
『鎌倉古戦場を歩く』奥富敬之・奥富雅子 新人物往来社
『鎌倉と北条氏』新人物往来社
『日本史広辞典』山川出版社
『世界大百科事典』平凡社