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大江広元・毛利季光の墓

広元の子が季光
季光の子が涼子
涼子の子が時宗
ですから季光は
時宗の祖父ですね。

大江広元は、鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で、明経博士中原広季の養子となり、鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。同じ広季の養子親能が源頼朝と親しかった関係から頼朝に招かれ、1184年(元暦1)以来、幕府の公文所ついで政所の別当となり、草創期幕府の発展に力を尽くした。
なかでも朝廷との折衝に重きをなし、平氏追討の時期には頼朝の意を朝廷に伝える役を果たし、85年(文治1)11月には守護地頭の設置を頼朝に献策している。90年(建久1)に頼朝に従って上洛すると、そのまま京にとどまり、明法博士、検非違使となって、朝幕関係の安定化に努めた。
頼朝の死後は、政子の信任を得て、北条氏を中心とする執権政治確立の基礎固めをした。北条時政が執権として力を振るうと、いったん政所別当を退くが、05年(元久2)の時政出家と平賀朝雅追討、13年(建保1)の和田合戦では、幕府の長老として政子や北条義時を助けた。16年に再び政所別当になると、大江姓に復帰した。
翌年重病により出家して覚阿と称したが、その後も、将軍実朝暗殺事件、承久の乱、伊賀氏の変と相次ぐ事件の処理にあたり、執権政治の安泰化に努めた。

西中国の雄族で中・近世大名である毛利氏は、大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り、季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが、その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘、安芸国吉田荘等を保持した。