寺法によれば、足掛け3年、 つまり24ヶ月間寺に身をおけば 離縁ができることになっていました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 口を開けた横向きの虎に見えますでしょ? |
神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺。
松岡山東慶総持禅寺といい、松岡御所とも称された。
北条貞時を開基、覚山志道尼(北条時宗後室)を開山として、時宗の死の翌年、1285年(弘安8)開創と伝え、覚山志道尼の墓がある。 中興開山は20世天秀法泰尼(豊臣秀頼の娘)。 この寺は代々尼僧が住職をついでおり、江戸時代には俗に「縁切寺」「駆込寺」と呼ばれた。 当時庶民の間では、離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった。 離縁状を交付しない夫に対して、妻(側)からの離婚請求権は法律上きわめて限定されていたが、その 一つに縁切寺への駆込みがあった。 江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われるが、中期以降になると鎌倉松ヶ岡の東慶寺と上州(群馬県)勢多郡徳川郷の満徳寺の2つの寺のみに限られた。 両寺が江戸時代を通じて縁切寺たりえたのは、徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒による。 東慶寺は千姫が助命をかなえた秀頼の息女天秀尼の入寺に当たって家康が特別許可を与え、満徳寺は千姫自身が入寺し、離婚後再婚した例にならって、両寺とも開山以来の縁切寺法の特権が再確認されたゆえと伝えられている。 縁切寺における離婚には、足掛け3年(東慶寺24ヵ月、満徳寺25ヵ月)の在寺と引換えに寺法を発動して夫から離縁状を強制的に差し出させる寺法離縁と、寺の仲介・説得により当事者双方が示談で離縁を成立させ、妻は入寺せず直ちに親元へ引き取らせる内済離縁とがある。 夫がどうしても離縁状を出さないときは、寺では寺社奉行所に訴え、奉行所はその威光により夫を仮牢に入れても離縁状を出させた(お声掛り離縁)。 離縁を願って駆け込んだ妻のなかには、寺の説得によって帰縁(復縁)することもあった。 また入寺費用が妻の親負担だったので安直には駆け込めず、たとえ駆け込んでも貧乏な実家に思いをはせて止むをえず帰縁した女もいたと思われる。 両寺は明治維新後も1870年(明治3)までは縁切寺法を存続したが、徳川家の庇護のみを頼ってきた満徳寺は72年に廃寺し、なお縁切寺の制度維持を願い出た東慶寺も71年7月政府によって願い出が却下され、ここに縁切寺は国家権力によって完全に否定・禁止されたのである。 東慶寺は明治末年からは尼寺でなくなっている。 東慶寺では木造聖観音立像などが重要文化財に指定され、境内には西田幾多郎、和嶋哲郎、高見順など学者や文学者の墓が多い。 |